今日、考えさせられる出来事がありました。

用事があってマサイ戦士集落を訪ねた際に、たまたま、近隣の住民を集めての集会が行われている場面に出くわしました。その集会に招き入れられたので、私も参加して話を聞いたところ、「マサイの戦士たちに動物の殺傷をやめさせるための教育」の会合で、召集をかけたのは、KWS(ケニア野生生物公社、政府機関)のシニアワーデン、近隣の町の警察本部の所長、CIDの所長、動物保護NGO団体のコーディネーター(マサイ)。というメンバーで、その話を聞くために集められたのは、この地域の戦士たち、長老たち、ママたち、大人たちでした。

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彼らが説得しようとしていた内容は、たとえ野生動物に襲われたとしても、仕返しをしてはならない。(=マサイの伝統文化では、もしもライオンに自分の家畜が襲われたとしたら、そのライオン本人に仕返しをしにいく。それによって野生動物との共存を可能にしてきた。)

戦士活動として、野生動物の狩りを行ってはならない。(=マサイの伝統では、戦士活動の一環として、野生動物を仕留めることがあった。例えば、戦士の飾りを作るための象やダチョウ、盾を作るためのバッファロー、寝込みを襲わない正々堂々と戦うライオン狩り。ライオンを仕留めなければ、エウノト(戦士卒業式)ができない。エウノトに使う大切な道具として、ライオンのたてがみ、前足、尻尾が必要であるため。)

説得内容は、これらの野生動物を殺すということは、動物の減少を招き、それによって観光客の減少を招き、この地域住民にとっても死活問題である。だから殺傷をしてはならない。殺傷をすることは法律違反である。ということ。

それを神妙な顔をして聞いている戦士や、長老たちを見ていて、伝統文化の終焉の瞬間に立ち会ったような気持ちになった。なぜならば、野生動物と闘わないということは、すなわち、戦士活動を行えないということであり、そうすると、社会の中での戦士の立場の意味も無くなり、彼らの学びも誇りも無くなる。

今の戦士集落でも、かろうじて、戦士の装束を着て、髪を伸ばし、戦士としての見かけになっている若者たちはいますが、すでに精神性も社会事情も以前とは違っており、戦士活動も十分に行えない、学びも十分に受けられない、そんなジレンマを感じました。

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この集会での議論の中で、住民側からの意見で、このようなものがありました。我々マサイにとっては、放牧の最中や森の中でライオンに家畜を襲われるよりも、自分の集落の中でライオンに家畜を殺されるほうが、大変な耐えがたき屈辱であるが、仕返しをしてはならないということは、我々はもう自分たちの家畜や集落を守りきることができない。それならば、その解決策としては、我々の集落を電気の通った鉄条網で囲ってほしい。そうでもしてくれなければ、もう我々は自分たちの家畜も、人間も、守ることはできない。と、そのように長老が意見を述べました。シニアワーデンや警察署長たちは、その陳情を聞きながら失笑して携帯電話をいじっていました。

このような集会に熱心に聞き入って、様々な意見を交わす彼ら、時代の変化に対応しようとしている彼ら、彼らマサイの発言の一言一言や、その表情から伝わってくるものが、なんだか胸にグッと来た。時代の激動の中、変わっていく(変わらざるを得ない)彼らをそばで見ているのはしんどいときもあるけど、やっぱりこれからも見つめていきたい。

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