食料配布と、オギラ先生んちのホーム勉強会は続いている。
食料配布は、必要とする困窮家庭リストが次々と増えていき、今やリスト5までいっている。各リストが100~200世帯。
日々マゴソスクールを訪ねてくる困窮家庭があとを絶たない。(夜寝ていても、このリストが頭をチラつき、だいたいいつも午前3時に、アッと叫んでバタッと飛び起きては、時計を見てまた枕に倒れこむ毎日。)

なんでもいいから何か食料を分けて欲しいと言ってくる。
そこから困窮度合いを調べてリストを作る。
作っている最中にもまた次から次に困った人々が訪ねてくる。
というわけで、私の準備が出来る間に、オギラ先生が名案を。

この食料バウチャーは、キベラスラムに最も近いスーパーマーケットと提携していて、私たちがリストを持って行くと、マネージャーがそれだけの在庫を備えるように発注をしてくれる。
そして、ソーシャルディスタンシングに注意しながら、時間差で各家庭が取りに行く。
食料リストの文字が読めない人も多いので、そのサポートもスーパーの人々やマゴソ先生方がしてくれる。

そのスーパーマーケットには、お買い物ポイントカードがあり、100円につき1ポイント加算。そして、そのポイントを使ってさらにお買い物が出来る。
これまでの食料バウチャー購入でたまっていたポイントを使って、オギラ先生がウガリの粉(主食を作るトウモロコシの粉)を大量に買って、ギリギリまで困窮して訪ねてくる家庭に2kgの一袋づつを渡している。

リリアンやオギラ先生は自分が食料を得ても、自分の家庭の分も全部、周りの人たちに配ってしまうので、自分の家はそのトウモロコシの粉をウガリよりも薄く炊いて、お粥のようにして家族で食べている(食べるというより飲む)という。三食そればかりだと言って笑っていた。

これは、日本の戦中戦後の話を思い出す。戦中戦後にいかにして工夫して、ジャガイモの皮まで食べ、それをつぶして澱粉を取り、何とかして少しでも腹持ちさせるように工夫をしていたという話をよくいろんな本で読んだ。

さて、あの人この人と私が知っているスラムのお友達や生徒の家族の名前を出して、みんなの近況を聞いた。
ロックダウンも長くなり、ケニア中でみんな疲れが出てきており、先日の大統領演説の際も、みんな今か今かとロックダウン解除を待ちわびて、30日延長とアナウンスされてガックリとしていた。
大統領は、みんながフルタイムで仕事に行けるようにせめてもの緩和策ということで、夜間外出禁止の時間帯をわずかながら短縮して、午後7時からだったのを午後9時からの禁止にしたが、それによってみんながどのくらい仕事のチャンスを取り戻せているかを聞いてみた。
ところが、かなり厳しい状況だった。もともとキベラの人たちは日雇いや短期契約、不定期な仕事が多いのだが、その勤め先、例えば警備会社とか、お手伝いさんを雇う家庭、建設現場などで、キベラスラム在住者は真っ先にはじかれているという。(キベラスラムでの感染が拡大しているとのニュースが毎日流れているので。)
警備会社から月ぎめでの契約を得ていた人も、ヒマを出されて以来、再雇用されていない。
お手伝いさんも、キベラ在住者は雇ってくれない場合が多く、「検査結果を持ってこい」と言われて帰されるという。
(検査結果を持って行ったからといって、雇ってもらえるわけではない。)
このように、キベラの外に働きに出ている人たちが稼げていないのだがら、スラムの中で食べ物を売る人たちなどはさらに稼ぎが無くなる。

それでも毎日、仕事や稼ぎのチャンスを求めて出ていかねばならない。
徒労に終わって手ぶらで帰ってくる毎日。

あまりにも食べ物がないので、もう限界だと、田舎の村に帰りたい人たちもいるが、ナイロビロックダウンで移動が出来ない。
しかし、逆に、田舎の村で食べ物がないからと、キベラスラムに帰ってくる人たちも毎日後を絶たない。
一体どうやって移動してきたのかと聞くと、現在感染拡大していて最も心配されているウガンダ国境周辺からが多く、そこから直行バスでは行けないので、まずはナクルに行き乗り換え。ナクルからローカルなマタトゥに乗り、リムルまで行き降りる。そして、リムルの市場で野菜を買い、それを手にして何食わぬ顔をして歩いて境界線を越える。荷物は一切持たない。ちょっと近所に買い物に来た、という様子を装って、徒歩で境界線を越えて、ナイロビ市内行きのマタトゥが出ているところまで行き、移動する。という方法。

そして、車でそのまま境界線を越えようとする人は、3000円の賄賂を警察に払うのだという。

だから、キベラスラムにいても飢え、田舎に行っても飢える。
田舎に行っても飢えるのはなぜかというと、そもそもが田舎で畑を耕していないので、行っても収穫できる作物がない。そして、現在雨期なので、収穫期はまだだ。
もともと田舎には現金収入は無く、生活が厳しいからこそキベラスラムに出稼ぎに来ていた人が多い。
そうしたら、いま田舎に帰ったって、そこには暮らしていけない状況がある。わかっちゃいるけど、こちらがあまりにも厳しいから、田舎のほうがマシなのかなと、帰りたくなるのが人情だ。帰ったって、状況は厳しい。

食べ物を、何とか、何とかその日その日得て、子どもたちに食べさせなければならない。子どもはお腹がすいたと泣くし、弱っていく。親にとって、それはどれほどのストレスだろう。

というわけで、私たちはひたすら食料配布を続けていく。
この先に、コロナ後の時代が待っているのだとしたら、どうかこのキベラスラムの仲間たちにも、それまで何としてでも生き抜いてもらいたい。みんなで、コロナ後の新しい時代まで生き抜いて、またみんなで笑って会おう。あの頃は大変だったねー、という語り草になる日を夢見てがんばる。

写真は、オギラ先生の自宅(長屋の一室)でのホーム勉強会。密集しているけどどこにもスペースが無いので、どうかそこは指摘しないで欲しい。わかっている。わかっているけど、仕方ない。出来ることの最大限をやって彼らも生きようとしている。