三日前、マゴソスクールの近所で2名のコロナ陽性者が出た。その人たちは、コロナではない病人を病院に運ぶのを手伝った近所の人々だった。
キベラスラムではそのように、病人が出たらその人を病院に運ぶことを近所の人たちが助けるというのは当たり前のことで、常日頃からそのような助け合いのもとに人々が生きている。その手助けによって感染してしまった。

初期の感染者は、ナイロビやモンバサなど大まかな地名しか発表されていなかったが、ここ最近はナイロビの中のどの地区だとかの発表もされるようになり、この3日前の2件がキベラスラムとはっきり地名付きで発表された最初だったけど、実はその前にも私が知る限りすでに4件、キベラスラムでの陽性例があったので、これでキベラスラムからの合計は6人になったのだろうと思う。

この一カ月でキベラスラムの様子も大きく変わった。

ケニアでは、3月15日に大統領令が発令、3月16日から学校閉鎖、3月22日に再び大統領令、3月25日深夜ですべての国際線が停止、3月27日から夜間外出禁止令(午後7時から午前5時)、4月6日からナイロビ含む4地域で部分ロックダウン(都市への出入りが禁止)、4月10日からマスクの着用の義務化(罰金制)という具合で、あれよあれよという間に展開していって今に至る。

その本格的な始まりだった、3月25日深夜でケニアのすべての国際線が停止した時点で、多くの友人たちがリストラに合い職を失った。
定職についていた人でも仕事を失うのだから、最底辺の生活層であるスラム住民にとっては事態はもっと深刻だ。

マゴソスクールとジュンバ・ラ・ワトトを合わせて600人近い子どもたちの家庭は、ほとんどが低賃金労働者や、低収入の小規模商売の従事者、さらに、病人、怪我人、障がい者も多く、生活状態が非常に厳しい家庭ばかりだ。

保護者の中で最も一般的な職種としては、日雇い労働者、路上で野菜など食料を売る小規模商売人、お手伝いさんや警備員などの低賃金労働者だが、これらはどれも大きな打撃を受けている。

例えば野菜やマンダジ(揚げパン)、チャパティなど、路上で食べ物を売る小規模商売人は、スラムの中でスラム住民に向けての商売をしている。
ところがその客となる人々が職を失いお金がない。なので、商売を継続していても売れない。赤字が続く。
彼女たちは通常、夜明け前から深夜まで長時間働き、やっとその日の糧を得ていたわけだが、その日売り上げが無ければ、翌日仕入れに行くお金がない。

お手伝いさんも多くが仕事を失った。
コロナを家の中に持ち込まれては困るという理由で、多くのお手伝いさんは暇を出された。自宅待機にして給料を払うという雇い主は少ない。

会社や店も閉鎖したので、警備員だった人たちも解雇された。また、国際線が停止した3月25日から、先週の4月18日までの間に、各国が数回のチャーター便を手配し、ケニアに残されていた外国人に帰国を促した。数多くのケニア在住の外国人は帰国し、その家庭や会社で働いていた人たちも職を失った。

キベラスラムの住民たちのうち、避難できる田舎がある人は家族を連れて田舎に帰った人たちもいる。しかし、そもそもがそんな田舎もない人たち、故郷の村は貧しすぎて耕す畑もない人たち、住む家がない人たちなども多く、さらに、感染予防で距離を開けなければならなくなってからバス代が倍以上に値上がりし、そのバス代を捻出できないままにナイロビ封鎖になってしまったという人たちもいる。

このように、日に日に悪化していく状況下で、最底辺の人々の飢えがはじまっている。

4月10日に、食糧援助に詰めかけた群衆が大混乱を巻き起こし、なだれ込む群衆に踏みつけられた住民2名が死亡、警察によって催涙弾が投じられたが、その様子が日本を含む世界中に報道された。
キベラスラムの住民によると、この食糧援助はスラムで人気の大物野党政治家が提供したもので、それを取り扱うことになっていたキベラの地区長が新入りで、群衆のコントロールのやり方を把握しておらず、一気に混乱に陥ったとのことだった。

それ以降、食糧援助に関しての政府からの管理も厳しくなり、また住民も怪我をしたくないので怖がり、慎重になっている。

4/22現在、不定期だが行われている支援は、水の無料配布で、これはキベラ地区の国会議員が行っているものと、SHOFCOというケニア人とアメリカ人が合同で活動しているNGOが行っているものがある。
キベラスラム住民は自宅に水道がなく、水は買って運んで使っている。この経済的負担は大きく、しかも近年の度重なる強制撤去により水道の出も悪くなっており、常に水不足による水代の高騰に悩まされている。
なので、水の支援は人々にとって非常に助かる。水をもらえたら、水を買うはずだったお金で食料が買えるからだ。
しかしその給水車にも、いつどのタイミングで出会えるかわからない。

食料援助は、私が知る限り、私たちのように個人で行っている小規模のものが、私以外には、教会と、スラム出身のサッカー選手たちが行ったものがあるが、その恩恵を受けられる人々の割合は、スラム全体からしたら微々たるものだ。

この約一カ月の間の生活状態の悪化は急激で、今すでにキベラスラムでは目に見える形で人々が飢えている。

ロックダウン前に何とか田舎に避難できた人々の空き家になった住居を、飢えた人々が襲っている。
夜中に押し入り、狙うのは食料と燃料だ。
煮炊きをするのにスラムでは燃料が必要だが、その燃料が高価なため、生活費の中での負担が大きい。リフィルタイプのガスのシリンダーは高価な貴重品で、押し入り強盗に狙われる。それ以外に使われている燃料は木炭、灯油、薪だが、そのどれもが高価で、お金を出して買わなければそもそも食料が手に入ったとしても煮炊きができない。

一昨日、そのように泥棒に入った若者2名が、住民たちの袋叩きにあって死亡した。これはケニアではモブジャスティスと言われ、警察が頼りなく正義が守られないケニアでは、昔から、貧困層の間では自らの暮らしを守り、コミュニティの秩序や安全を守るためにモブジャスティスという集団リンチが行われることがあった。
強盗が見つかると、群衆が取り囲んで絶命するまで袋叩きにするのだ。
私は昨日、その撲殺された2名の若者のうち1人の写真を見て絶句した。凶悪な若者ではなかった。飢えが彼を盗みに走らせてしまったのだと思う。

私がいまスラムの様子を垣間見ることが出来るのは、夜間外出禁止令にかからない日中や、スラムに住む友人たちを通じて知ることしか出来ないが、夜間には、私たちが想像もできないような緊張感と恐怖の中で人々は朝までの時間を過ごさなければならない。

それでも、日中に垣間見る姿は、多くの人々はこの非常事態によく対応して、我慢強く、生き抜こうとしていると思う。
不自由になったことや不安要素は非常に多いが、それでも人々は、日々を生き抜こうとしてありとあらゆる手を尽くそうとしている。

路上でマンダジや野菜を売る人々は、バケツに蛇口をつけて、お客さんのためのハンドウォッシュポイントを設置し、手渡ししなくても商品を清潔に渡すことが出来る工夫をしている。

もともと長時間労働で身を粉にしなければ日々の糧が得られないほどの貧困者たちが、夜間外出禁止令のために経済活動ができる時間を制限され、さらに不利な状況を強いられているが、それでも、ありとあらゆる方法で仕事や収入を作りだそうとしており、生きることをあきらめていない人々が今日も家の中でゆっくり休むことは出来ず、朝も昼も夕方も、忙しくスラムの中から出入りを続けている姿を、延々と、延々と道路を歩き続ける姿を見る。

車が行きかう道路でもリヤカーを引き、物資を運び、路上で様々な物品を売ることを試みる人々の姿を見るにつけ、その生きるための努力に今日も私は胸が詰まる。
どれほどの不安にさらされていようとも、彼らはスラム以外に住む場所は無く、不満や不安を訴えるヒマもなく、とにかく今日を生き抜く努力をしている。

スラムで手作りマスクを作り、それを一般の住宅街の道路わきで売っている人々も最近は多く見かける。とにかく何でもいいから毎日毎日少しでもお金を作りださなければ生きていけないのだから、文句を言っていてもどうにもならないのだから。

近況報告、②に続く。(②では、現在私たちが行っている食糧配布の状況についてお知らせします。)