給食話題はこちらから読んでください(笑)。長いけどすみません。

私がリリアンとマゴソスクールを作った、そこにたどり着くまでの話を番外編として書きたいと思います。

私はそもそもはアフリカに支援活動をしに来たわけではありませんでした。

世界を放浪しながらアフリカにやってきて、アフリカもしばらく旅したあとでナイロビに定住して働きはじめ、ケニア生活も10年を超えたころにマゴソスクールははじまりました。

私が大学に入学したのは1985年です。その頃の日本はバブル景気まっしぐらの時代で、世の中ほんとに浮かれてた。お金がどんどん稼げる時代で、そんな世の中が私は本当に虚しかった。生きる上で大切なことは何なのかと深く思考する世の中ではなかった。それを真剣に考えていた前の時代の人々は、社会を捨てて山の中にこもっていった人々がいました。山の中までそんな人々に会いに行っては、彼らの暮らしぶりに感銘を受けつつも、なんだか私はちょっと納得できなくて悶々としました。世界を自分でよく見て、考えて、自分が納得できる生き方がしたいなと思った。だから旅がはじまりました。18歳のときのことです。

旅は本当に楽しくて夢中になりました。もっともっと遠くへ、もっともっと奥地へ、私がそれまで想像もしていなかった生き方をしている人々に会いたかった。そこでみんなが何を大切にして、どんな生活をしているのか知りたかった。旅はどんどんエスカレートしていって、ついに日本には帰らないでそのままケニアで生活しはじめました。世界中旅する場所どこも私は好きになり、それぞれの素晴らしさがあったけど、アフリカで一番のインパクトを受けました。アフリカは世界中のどことも違うワンダーランドだった。その力強さと大らかさに強烈に惹かれた。

ただ通り過ぎていくだけの旅人としてではなく、とことんアフリカと付き合いたいと思った。それでケニアで仕事を探したら見つかって、ナイロビで働きながら生活をしはじめました。

私がなぜそれからしばらくしてキベラスラムでの支援をはじめたかといえば、それは彼らは私にとって身近な隣人だったからです。貧富の格差や劣悪な医療状況、どうしようもない死、子を失う悲しみや病の苦しみなど、日常的に身の回りにある現実でした。私はナイロビのタウン(中心部)の旅行会社で9年間働きましたが、その当時ナイロビの町には浮浪児があふれているのが普通の光景でした。通勤の行き帰りや昼休みに外を歩くとき、浮浪児が後ろからついてくることはよくありました。彼らは駐車場で見張りをしたり、車を拭いたり、買い物の荷物を持って運ぶなどして小銭を稼く子たちもいました。だから私も、日常的に、彼らに荷物を持ってもらったりしながらおしゃべりをすることがありました。いつも同じ場所には同じ子たちがいて、顔見知りにもなりました。

私が毎朝、毎夕、通勤で通る道の角で、毎日ピーナッツを売っている小さな男の子がいました。煎ったピーナッツを円柱形にクルクルと新聞紙で巻いて、それをたくさん持って渋滞する車の窓に売り歩くのです。そんな子とも顔見知りになり、あるとき彼の家まで行ってみました。そこは高級住宅街の脇の狭い谷間に自然発生的にできたスラムでした。ボロボロの掘っ立て小屋に、病気の母親と小さな妹がいました。母親が七輪でピーナッツを煎り、それを彼が道端に売りに行くのでした。

私が働く会社には、当時ケニア人の同僚が30人ほどいて、日本人は3~4人でした。私たちは、文化や常識の違いから、ときどき何かと問題も起きるけど、ケニア人も日本人もみんなで力を合わせて働いていました。ケニア人の中にも、いろんな状況の人がいました。出身部族も違い、家庭的な背景も経済状況もまったく違う同僚たちです。何かというと隣人同士助け合うという姿勢は、彼らから経験的に学んでいった生活スタイルです。同僚の中にはスラム生活者もいれば、マイカーに乗っているケニア人もいました。家族の誰かが死んだ、誰かが病気になったり事故にあったといえば、ハランベー(カンパ)が回ってきました。昼休みに昼食を食べるお金がない同僚も普通でした。

そんな同僚たちの中には、安月給のお金を貯めて、夜間の学校に行く人たちも多かった。何しろあきらめないで粘り強く我慢強いケニア人。人生の結論なんてそんなにさっさと出るものじゃないんだって、ケニア人が決して楽ではない暮らしをせっせと生きている姿を見ながら、なんとなくそんなふうに私は思うようになりました。そしてどんな人生にも、そこにはいろんな苦労や楽しみ、喜びや悲しみがあり、幸せだとか不幸だとか簡単に言えるものではないんだと思った。生きることは、尊いことだと、心底そう思うようになった。

そうやってナイロビの街で働く毎日、いろんなものを見ました。道端で銃撃戦で目の前で撃たれて死んだ若者がいた。朝早く街角で、ケニヤッタ通りの銀行の角で路上生活の女性が出産していた。仲間の浮浪者の女性たちがカンガ(布)で周りを囲み、赤ん坊を取り上げていた。シンナーで廃人になって寝転がっている若者の横を、サラリーマンやOLは忙しく通り過ぎる。汚物を手で握りそれを袖の中に隠し、目の前に突きつけて脅して金を取る浮浪児。社会変革を求めるデモと暴動は毎週のように起きて、昼休みに歩いていたら催涙弾を投げられて咳き込みながら走るのも一度や二度ではなかった。それもすべてナイロビの日常でした。

リリアンは、私が働いていた旅行会社に、ティーレディー(お茶汲み係)として就職してきた同僚でした。今にして思うと、彼女はキベラスラムで両親が立て続けに病気で死に、多くの弟妹をかかえて必死で生きているときの、わらをも掴む想いでやっと得た就職先でした。月給は5000円程度だった。

同じ会社で共に働いていた頃には、私たちはほとんど会話したことはありませんでした。私は営業部長だったし、彼女は午前10時と午後3時に社員にチャイを配って歩く仕事でした。そんな私たちが親しくなったのは、私が会社を辞めてフリーになり、キベラスラムで最初の活動をはじめてしばらくしてからのこと、リリアンも妊娠した途端にリストラに遭い、職を失って、昼間ウロウロしていたキベラスラムの線路の上でばったり再会したのでした。

再会のとき、あなたこんなところで何をしているのよと、お互いに言った。リリアンは、私はここ(キベラスラム)に住んでいるのよと言い、会社はリストラに遭って職を失ったと言った。私は、ここでストリートチルドレンのリハビリテーションセンターをやっているのよと言った。そこに雨が降ってきて、ちょっとうちに寄っていかない?と誘われたのでした。

粗末な長屋の狭い一室がリリアンの自宅でした。そこで座って話をはじめたら、大雨になってトタン屋根を激しく鳴らしはじめた。雨が止むまで、私たちはそこで2人、いろんな話をしたのです。最初は世間話だったのに、なぜだかどんどん深い話になった。どのようにして両親が死んだか。母が死に、父が死んだとき、もう生きていくことができないと絶望して突っ伏して泣いた。すると不思議なことに、壁から声が聞こえてきた。立ち上がりなさい、そして前に向かって歩きなさい。あなたは立ち上がることができる。一歩前に足を踏み出してみなさい。歩いていけるから。と、はっきりとした声が聞こえた。それでフラフラと立ち上がって、それからひたすら何でもやって弟妹たちを育ててきた。まだ5歳だった末弟、6歳だった妹、17人の弟妹たちをどんなに必死に守ってきたか、彼らが貧困のどん底でどんな目にあったのかという話。生きるためにゴミも拾った。工事現場でも働いた。

あの大雨の中、真っ暗闇のキベラの長屋の一室で、リリアンと語り合った、あそこからはじまったマゴソスクールです。実際に学校がはじまったのはそれからまだだいぶあとの話です。

このお話のおまけに、私が旅をしていた頃の写真をここに載せます。19歳、20歳、21歳くらいの頃の写真です。かれこれ、30年前(笑)

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ザイールと中央アフリカ共和国の国境にある無国籍地帯で、乗っていたトラックが横転して、それから2週間お世話になった村の女性たち。すごく楽しかった。

私たちが保存食で持ち歩いていた魚の干物があった。それを料理して私が魚の骨を捨てたら、彼女たちは恥ずかしそうに、これをもらっていいかと言って拾った。

何にするのかと不思議に思って、あとをついて行ったら、彼女たちはその骨を臼に入れて、杵でついて粉にした。そしてそれを、雑穀の粉に混ぜて炊いた。

ものすごく驚いた。これほどまでに過酷な暮らしがあるのかと思った。

この村では、砂嵐が吹くとみんな物陰に急いで隠れてじっと息をひそめて待つが、鼻の中にも口の中にも砂が入ってきて苦しかった。村の中に水道は無く、とても遠い干上がった砂の川まで水汲みに行った。

砂地を掘って、じわじわと湧いてくるわずかな水を大切に汲んで、村に持って帰る。そんな貴重な水は、真水ではなく、何やら鉱物が入っているような、ピリリと舌に痛いような味がした。

そんな貴重な食料や水を、ただの通りすがりの旅人に惜しげもなく分け与えてくれる、アフリカの村の人々の心は信じられないくらいに大きい。

 

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アフリカ大陸を東から西に、横断して、ナイジェリアの海岸に出た。ラゴスのYWCAに泊まっていたとき仲良くなったパメラと、その彼氏が海を見に連れて行ってくれた。大西洋が目の前に広がっていて、その海の向こうは南米なんだと思った。その海を眺めながら、もう通り過ぎていくだけの旅人ではなくて、ここでしっかりいちから生き直してみようと思った。

 

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友達が撮って送ってくれた。どこか覚えていないけど、アジアのどこかの市場だったはず。

 

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インドのコルカタのサダルストリート、片腕のロットン(右)とラジーシ(左)

家にも連れて行ってくれて家族も紹介してくれて、毎年繰り返し会いに行った。猿回しの猿マンと呼ばれていたバナナ売りのおじさんもいました。彼らは元気にしているだろうか。

 

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インドのバラナシのヨギロッジの旅人たち。夜通し語り合って、本当に楽しかった。

 

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コルコタのホテルパラゴンの屋上でたくさん手紙を書いた。

 

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ダージリンではその頃、夕方6時以降は戒厳令が出ていて、外に出ることができなかった。部屋で自炊をしているところ。実はここ夜になるととても寒かった。

 

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物資を運ぶトラックの荷台に乗せてもらってザイールから国境を越えた。このトラックが国境の無国籍地帯でひっくり返った。この道に次にバイクが通りかかったのはそれから2週間後のこと。村の人々にとてもお世話になった。ひっくり返ったトラックを、村人たちがみんなで力を合わせてロープで引っ張って起こした。旅の間や立ち往生をしたときなど、このトラックの車体の下にビニールシートを張って、その中でゴザを敷いて寝た。

立ち往生した村で、村の長老が私たちに大切なヤギを贈ってくれた。貴重なヤギ、夜明けに神様に祈りを捧げてから屠り、解体して、燻して保存肉を作り、それから2週間、それで全員が食いつないだ。