皆さんこんにちは。
多くの方々に応援していただいて2006年10月26日に腎臓移植手術を受け一命を取りとめたジュマ・ハミシ・カテンベ君についての近況報告をお知らせします。
早いものでカテンベが腎臓移植手術を受けてから今年で10年になります。
モンバサ近郊のミリティー二村で貧しい家庭に生まれ育ったカテンベが、瀕死の状態で大西匡哉くんに背負われてナイロビに到着したのは2006年2月、カテンベが14歳のときのことでした。
ナイロビ病院に連れて行き検査を受けたところ、腎臓が両方とも完全に機能を失っていて、このままだとあと2週間ほどしかもたないと言われました。
即入院、人工透析を開始し、腎臓移植手術の準備をはじめましたが、その間、彼は何度も危篤に陥り、何度も死の淵からまた目覚め、闘病をしてきました。
人工透析開始。透析をしながら意識を失うこともたびたびあった。
発育不全で体はとても小さく、骨はボロボロでそのときはすでに立って歩くことも話すこともできませんでした。吐き続けて食べることも飲むこともできず、何度も意識を失いながらも、彼は「生きたい」という強い意志を表し続けました。
3日間意識不明だったとき。手を握って話しかけると、目に涙がにじんで目じりからこぼれた。
3日間の意識不明から目覚めたとき。しゃべれないがまっすぐにこちらを見ている。あとで話せるようになったとき、「神様に会ってきた」と言った。神様に会って、まだ死にたくないから生きさせてお願いしますとお願いしてきたんだと言っていた。
母親から腎臓のひとつを提供してもらい、移植手術を受けたのは2006年10月26日。手術は大成功で、それからのカテンベは強い生命力でめきめきと回復していきました。学校にも復学することができました。
手術後、セントクリストファー小学校に編入できて、嬉しいカテンベ。まだゆっくりゆっくりとしか歩けなかった。
彼は一生、高価な免疫抑制剤を飲み続けなければなりません。感染症に弱いため、通常の暮らしでもかなり注意をして生活せねばなりません。
カテンベは2010年12月に優秀な成績で小学校を卒業し、2011年から高校生になり、2014年11月に晴れて高校を卒業することができました。
高校でも優秀な成績を収め、大学に進学できる成績でしたが、2006年からご支援をいただいてきました支援者の方々の多くは、年を追うごとにご高齢になられ、お亡くなりになった方々も多数いらっしゃいます。退職をされて支援を続けることが困難になった方々、ご自身もご病気になられ支援継続ができなくなった方々もいらっしゃいます。
そこで、大学に進学するための費用を捻出することはできず、この1年間、カテンベは、自分自身で今後の医療費や生活を何とかしていくための道を探ってきました。
医師からの診断書と実家の村長からのレターを持って、カテンベとカテンベの母は、四方八方、思いつくところはすべて回ったそうです。イスラム教のモスクや、大きな病院、大手銀行、一般企業、テレビ局、ラジオ局、新聞社など、徹底的に訪問をして支援を募ってきましたが、それによりテレビ局からの取材が来て番組で取り上げられはしたものの、支援を得るまでには至りませんでした。
腎臓を提供した母親はずっと体調が悪く、さらにカテンベの妹は小児糖尿病で、失明寸前となっています。父親は数年前に病気で亡くなりました。
そこで、高校卒業から1年たった今、本日2016年1月12日に私はカテンベとカテンベの母、カテンベの叔父、オギラ先生と会合を持ち、今後の対策について話し合いました。
移植した腎臓も順調に機能しているカテンベの体調は良好で、手術後数年間は7種類の薬を使っていたところ、現在ではその薬は3種類に減らされています。
カテンベが必要な薬代は、1日あたり 1450ksh (約1800円)。
この薬なしに彼は生きていくことはできません。
カテンベの手術後、カテンベの腎臓移植基金はいったん終了させ、カテンベの命を維持していくためのサポーターを募りました。19名の方々が賛同してくださり、レギュラーサポーターとなって支援を続けてくださり、これまでカテンベは命をつないでいくことができ、高校に行き学ぶことが可能になっていました。
10年たった今、はじめは19名だった支援者は、6名になっています。
この6名の方々も、それぞれに人生の事情があるから、いつまでもご支援いただけるわけではないから、カテンベが自立をしていくことがとても大切だということをこれまでも厳しくカテンベに話をしてきました。
2015年の年末に、カテンベ基金の残高を確認したところ、もうすでに彼の薬を一年分購入するには足りない金額しか残っていませんでした。円安の状況も影響しています。
この現実をカテンベには高校を卒業したときに厳しく話をして、1年かけて自立の準備をするようにと1年分の薬を手渡しましたが、その薬があと3日で底を尽きます。彼も家族も努力をしましたが、慢性的な病気に対しての支援を得ることは簡単ではありません。特にすでに子供ではなく、23歳になったカテンベにとっては、どこからも支援を受けることはできませんでした。
そこで本日会合を持ち、オギラ先生にも親身に指導をしてもらい、彼の今後の計画について話し合いました。
本日購入して渡した薬は、2月末までの薬です。
これからカテンベには、進学はいったんあきらめ、とにかく早急に何らかの収入を得ていくための商売を立ち上げてもらいたいという話をしました。
現在のカテンベ基金の残高は、204,120ksh (約25万円)。このうち半分の10万シリングを使って、どんな事業を立ち上げることができるか、そのビジネスプランを練ってほしいと言いました。いろいろと調査をして、得られる収入の見込みなどを計算し、事業を立ち上げること。それを、オギラ先生が指導していくことになりました。
残り半分の10万シリングは、万が一の薬代と医療費として取っておきます。
しかし1日あたりの薬代は 1450ksh (約1800円)。
ケニアで、特にミリティー二村で、しかも高卒の資格しかない者が、これだけの収入を得ていくのは至難の業です。
そこで、ジェネリック薬について調べました。
インドで製造されているジェネリック薬がケニアでも販売されています。ただ、このジェネリック薬は安いものの、体に合うかどうかは使ってみなければわからないそうです。
カテンベにとっては1つしかない腎臓、しかも母親の腎臓で、父親はすでに死亡しており、妹は糖尿病ですので、もしこの貴重な1つだけの腎臓が機能を失った場合、命取りとなります。
ですから慎重に進めていかねばなりませんが、もしジェネリック薬に変更した場合、1日あたりの薬代は、610ksh (約763円)となります。
私がカテンベに言ったのは、カテンベよりも私のほうが25歳年上だから、当然、私のほうが先に死ぬし、カテンベはうまくするとこれからとても長く生きるチャンスがある。
だからよけいに、今から、自分の力でこの薬代を何とかして、さらに、生活費を稼げるだけの仕事をしていくことがとても重要だということ。
新たな支援を得るために奔走した1年でしたが、何も得られなかった今となっては、彼も、支援を受けることの難しさを痛感しています。
それならば、自分で稼いで自分で薬を買えるようになるほうが確実なのです。
これは軌道に乗るにはまだまだ時間がかかるだろうと思いますが、これから少しづつ商売をはじめて、稼いだお金を貯金していき、また商売を拡張していき、将来的には自力で薬代をまかなえるようになってもらいたいです。
そしてこれまで苦労をしてきた母親を助けてあげてほしいです。
カテンベのお母さんとキベラ在住の叔父さん。この叔父さんはマテラ長老の従兄弟です。
進学したいという夢も捨てないで、これから自分でそれなりに稼げるようになったら、そのお金を貯めて学費にすることもできる。そうやって一生かけてステップアップし続けていったらいいのだということを、私とオギラ先生とで力説しました。
あと1週間で大西匡哉くんが久しぶりのケニア里帰りをしますので、それまでに、そのビジネスプランを練り、1月20日に再びミーティングを持つことになりました。
カテンベは非常にやる気になっています。
これまで多くの皆様にカテンベの命を支えていただきまして、本当にありがとうございます。カテンベが自立するまであと一歩、もう少し支援が必要です。
どうか彼の成長を見守りつつ、あともう少し、引き続きのご支援をいただけますと大変ありがたく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
またカテンベからも報告をお送りします。
早川千晶
●カテンベの腎臓移植手術までの経緯を綴ったブログ
http://keepmusic.exblog.jp/
●腎臓移植手術後のカテンベ支援の窓口
「マイシャ・ヤ・ラハ基金」
http://www.maisha-raha.com/
カテンベはしんどくて歩けないときも気だけは強かった。ひょうきんで小児病棟の人気者だった。
小児病棟いつも仲間たちがいっぱいでにぎやかでした。この仲間たちがいたからカテンベもがんばれた。
小児病棟は付き添いの家族も泊まりこむことも多かったから、みんな子どもたちも付き添いの家族たちもとても仲良くなった。家族同士も助け合いました。
ルワンダ虐殺遺児のクレア。姉から腎臓の提供を受けてナイロビ病院で腎臓移植手術を受けた。瀕死の状態でナイロビにやってきたけど、すっかり元気になり、その後ルワンダで大学を卒業、結婚、そして今ではママになりました。